『沈黙 -サイレンス-』の独特の雰囲気
映画『沈黙 -サイレンス-』を観てきました。
キリシタン弾圧という重いテーマを描いた作品なのでお客さんはそれほど多くないだろうな、と思っていたのですが予想に反してかなりの数。
私も含めて年配の方が多かったこともあり、客席は普通の映画とは異なる独特の雰囲気で満ちていました。
多くの来館者は小説『沈黙』を読んでいるはずで、映像でどこまで表現できているのかという期待と緊張感も感じられました。
じつは映画を見る前は、これを題材にして登場人物や背景などを占星術で解説してみようと思っていたのですが、見終わって気が変わりました。
解説はネタバレになりますし、さまざまな思いが持ち上がってきたので、今日は独断と偏見いっぱいの超マジメなお話にしようと思います。
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小説『沈黙』と遠藤周作のこと
映画『沈黙 -サイレンス-』の原作は遠藤周作の歴史小説で、島原の乱が収束して間もない頃の長崎におけるキリシタン弾圧について書かれています。
物語は、若きポルトガル人司祭2人が恩師を探すために長崎に来るところから始まります。
2人は最初のうちは隠れキリシタンたちに歓迎されますが、やがて奉行所に追われる身となり、激しい拷問を受け死んでいくキリシタン達を前に『神の沈黙』について苦悩します。
とても重く深いストーリーです。
小説『沈黙』は1966年の出版当時、カトリック側から強い反発と糾弾をうけた問題作で一部の地域では発禁扱いとなったそうです。
異教の神を信じているがために残酷極まりない拷問を受けて苦しみながら死んでいく隠れキリシタンたち。
神が本当にいるならば、なぜ神は沈黙を続けるのか、神はなぜ救ってはくれないのか、ということが問われています。
じつは、私が10代の頃に読みふけったのが遠藤周作で、その中で最も印象に残ったのがこの『沈黙』。
この小説で扱われているストーリーが自身の背景と少なからず重なるところがあったこともあり強い思い入れがありました。
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『沈黙』の中で問いかける人
今回気になったのは「50年も前の古い小説がなぜ今ごろ蘇ったのか?」ということでした。
ブラックユーモアが大好きだった故・遠藤周作先生ですから「ぼくが蘇って驚いただろう!」とニヤリと笑っていそうです。
今回、『沈黙』復活のキーパーソンとなったのは映画を監督したマーティン・スコセッシ氏。
高齢になってきているスコセッシ監督は、自分が生きているうちに『沈黙』を世に出さなければという使命感のようなものを感じたのではないでしょうか。
スコセッシ監督は、矛盾に満ちた現実のなかにある苦悩をテーマにした作品が多い方です。
そして作家・遠藤周作は、主張するのではなく常に『問いかける人』でした。
その代表作である『沈黙』はまさに人間の最も深い部分に問いかける作品。
スコセッシ監督はその問いを受けて何十年も考え続け、それををさらに鮮明にして後世に残したいと願ったのかもしれません。
映画『沈黙』の出来栄えについては個人の感想に委ねますが、小説『沈黙』の読者にとっては印象に残る作品になったのではないでしょうか。
わたしの場合は、衝撃なのか感慨なのか・・・映画を見終わってから胃が痛くなりヨロヨロと映画館を後にしました。
この映画は、興味がある人は上映時間2時間39分食い入るように見ると思いますが、興味のない人は冒頭10分で眠くなる可能性もあるクセのある作品。
娯楽的な作品ではないので好みは分かれるところですが、もしあなたが『問いかける人』ならば、心の奥で何かを感じるかもしれません。
ちなみに、イッセー尾形さんの演技は最高でした。
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占星術から見る『時代の意識と役割』
あまりにも深いテーマですし、宗教というデリケートな問題ですからここでは深く掘り下げずにおこうと思います。
そこで、今日は宗教ではなく視点を変えて『時代の役割』について少しお話をしてみます。
私たちは普段あまり深く考えることなく現代社会に生きています。
皆、それなりに悩みつつも、個人レベルで一生懸命に生きているのだと思います。
一方で、個人レベルではなく『時代の意識』と呼べるものもあって、その「時代」または「世代」全体の役割が反映されてます。
『時代の意識』を個人が感じ取ることはなかなかできませんが、逆に言えば、すべての人が感じ取っていることでもあります。
占星術でいうと『時代の意識』には動きの遅い天体が影響していて、その時代のカラーや役割を表します。
『沈黙』の舞台となった17世紀中頃にはまだ天王星も発見されておらず、一般の人には自分の意識を超えた存在を理解することが難しい時代だったといえます。
人々は月から土星(月・水星・金星・太陽・火星・木星・土星)までの限界ある意識しか取り込むことができずにいたわけですから、見知らぬ国からやってきた異教を深いレベルで理解することはできなかったでしょう。
そのため、信じるか、排除するか、の二択しかなかったのだと思います。
当時の庶民の思想は現代と比べるとシンプルで、特定の知識層を除いては、意識の力を使って現実を変えるなどありえないことでした。
土星という制限の星が庶民の意識をガッチリと押さえつけていた時代ですから、決められた厳しい枠組の中で生きるしかなかったのです。
ひとつの時代に生まれた人々は、それぞれが『時代の意識』の中に生きています。
もちろん、私たちも現代の『時代の意識』の中にいて、そのテーマを共有した生き方をしているといえます。
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少しばかり私のこと。プロフィールの代わりに。
わたしが遠藤周作の小説に魅せられたのは子供時代に関係しているかもしれません。
諸事情により私を育ててくれた祖母は敬虔なクリスチャンで、幼い私にキリスト教を教え込もうとしました。
そして、祖母の母親である私の曾祖母は霊能者であり占師。信じるものが違う彼女たちには深い確執があり、結果的に断絶していました。
双方の感覚を受け継いでいた私は子供ながらに非常に混乱していたのです。
結局わたしはクリスチャンではなくAgnostic(*)ですが、遠藤周作の作品には惹きつけられるものがあります。
ところで、遠藤周作は自分のことを『沈黙』の登場人物「キチジロー」に似ていると言っていたようです。
キチジローは卑劣で信用できない薄汚い人間ですが、あきらめずに救いを求めつづける強くて弱い存在でもあります。
誰の心の中にもキチジローのような部分があるのだと遠藤周作先生は言いたかったのかもしれません。
(以下、登場人物。少しネタバレ)
・モキチ(深く神を信じている純粋なキリシタンで後に・・・)
・キチジロー(キリシタンだが恐怖のあまり何度も踏み絵を踏む弱き者)
・筑後守(キリスト教は危険思想だとしてキリシタンを弾圧する人物)
・ロドリゴ(司祭。死ぬよりは踏み絵を踏むようにと教える)
・ガルペ(司祭。信仰のため踏み絵を踏むべきではないと考える)
・フェレイラ(ロドリゴ達の師だった司祭で最後に・・・となる)
もし、この作品をご覧になることがあれば、作家・遠藤周作とマーティン・スコセッシ監督からの深い「問いかけ」に思いを巡らせてみるのもよいかもしれません。
*Agnosticとは、神の存在や超越性について(言葉では)知ることはできないという中立な立場のこと。神の存在を否定も肯定もしない。不可知論者と訳されますが、ピンとこないので記事内では英語表記にしています。
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